池上本門寺の仁王像のモデルはアントニオ猪木
池上本門寺に師匠の力道山のお墓があったこともあり 当時 大人気だったアントニオ猪木がモデルになったそうです。
自分のルーツを知る方法
日本人の祖先といえば、大きく分けて縄文人と弥生人の2種類があります。
自分の祖先ははたしてどちらなのか?これを知る簡単な方法があります。
それは、耳アカから識別するというものです。
耳アカには乾いたコナミミと湿ったアメミミ(アブラミミ、ネコミミ)があります。
このうち乾いたコナミミは本州で84%を占め、これは北東アジアの新モンゴロイド系で、すなわち弥生系の特徴だといいます。
いっぽう湿ったアメミミは北海道、沖縄に多く、これは旧モンゴロイドの縄文系の特徴だそうです。
それぞれの簡単な特徴は、とても小さい歯だった縄文人、とても大きな歯だった弥生人、筋骨隆々だった縄文人、それにくらべて、少しきゃしゃだった弥生人、けがや病気も、縄文人と弥生人とは大きく違っていたそうです。
これは,縄文時代の狩猟にもとづく生活から弥生時代の米作りにもとづく生活への社会・文化の変化とともに、朝鮮半島南部からやってきた人々と、北部九州地方在来の人々との混血によってもたらされた変化だと考えられています。
女性の名前に子が付くわけ
ひと昔前まで、女性は子が付く名前がほとんどだったようです。
古代中国で老子、孔子など偉人や学者の名前に子が付くことが多かったのは、子が敬称だったためで、このような習慣が日本にも伝わり、奈良時代、平安時代は身分の高い男女の名前の末尾に子がつくようになったそうです。
例えば男性では小野妹子、女性では文武天皇の妃になった藤原京子などがそうです。
江戸時代になると、それまでは貴族など一部の特権階級の女性にしか付けられなかった子が武士の娘にも付けられるようになったそうです。
さらに明治時代になると、士農工商の身分制度が撤廃されたため子の付く女性は明治26年には17%、明治36年には37%、そして昭和8年には83%と急速に増えていったそうです。
黒船が黒船と呼ばれていたわけ
寛永10年(1633年)刊行の「犬子集」(えのこしゅう)に「雲のかかる月や黒ふね空の海」という句が載っています。
黒船といえば、嘉永6年(1853年)に浦賀に来航したペリーの黒船は有名です。
黒船という言葉はすでに中世末期から用いられていたそうです。
明国、安南、シャムなど唐船以外の外国船を黒船と呼んでいたそうです。
伊達政宗が慶長18年(1613年)に建造した船も黒船と称されていたそうです。
どうして「黒船」と呼ばれていたのか? それは、昔の船(外国船)は木造船であり、船体に水がしみこむのを防ぐために船体に真っ黒なコールタールを塗っていたのだそうです。
慶長8年(1603年)に刊行された「日葡辞書」(にっぽじしょ)という辞書には、「黒船、インドから来たる大型の帆船のようなピッチ塗り(コールタール塗り)の船」と書かれているそうです。
ペリーの黒船も防水防腐のために船体に真っ黒なコールタールを塗っていたわけです。
江戸の町は水道完備だった
昔むかし江戸時代には地下水を井戸でくみ上げて使っていたというイメージがありますが、実は江戸時代初期からすでに上水道が整備され水道が利用されていました。
「水銀」という水道料金も徴収されていたそうです。
徳川家康は江戸に幕府を開くとすぐに神田上水を作ったそうです。飲用水と消防水の確保が街づくりに欠かせないと考えたからだそうです。
やがて江戸の人口が増えると幕府は玉川上水を新設しました。
当時の水道は水源から水路で水を引き町内へは地下に木製の水管を引いて貯水槽まで送るという仕組みになっていたようです。
水道代は武家の場合は、それぞれの石高(玄米収穫量)によって割り当てられ、町人は地所の間口(土地の広さ)によって割り当てられていたそうです。
そのため町人で水道代を払うのは地主だけで店子や長屋住まいの人は水道代は無料だったのだそうです。
ペリーと通訳
1853年にペリー率いる黒船四隻が日本にやってきた時、黒船には日本語が話せる者は一人もおらず、日本にも英語を話せる人間がいなかったため、通訳を間に二人おいて、オランダ語で話し合った。
食事の回数
現在は「朝・昼・晩」と3回食事をとるのが一般的だが、江戸時代の中期までは「朝夕のおもの」といって食事は一日に2回だけだった。
3回になった理由は、天下太平の世の中になって幕府や藩の役人の雑務が増えた為といわれている。
悪魔の数字666
悪魔の数字666、足すと18になる。
これらは不吉な数字と恐れられています。
しかし正しくは『616』が悪魔の数字と研究ではなされています。
616は足すと13になり不吉ですね。 こちらの方が信憑性がありそうです
クリスマス
クリスマスはキリストの誕生日という認識が多いが、歴史を紐解くと、実は北欧のある土着信仰における復活祭が元ではないかと言われている。
当時新興宗教だったキリスト教がその勢力を広げるべく、便乗する形で乗っ取りを図ったのだという。
ちなみにキリストの正確な誕生日は不明 12/25、1/6、3/28、4/20など様々な説がある